生きていれば23歳。あのお父さん子の次男坊はどんな青年に成長していただろう――。兵庫県明石市で2001年に起きた花火大会の歩道橋での群集事故で、下村誠治さん(63)は息子の智仁ちゃん(当時2)を失いました。警察が捜査される側になった異例の事件は、被害者の司法参加や遺族へのバッシングなど、その後も問われ続ける課題をはらんでいました。現在は国土交通省公共交通事故被害者等支援アドバイザーを務める下村さんが、真相究明と再発防止のために闘った日々を振り返ります。
――歩道橋事故は捜査当局が当事者になる異例の事件でした。
子どもたちを喜ばせたいと、花火大会に連れて行きました。智仁はお父さん子で、僕が手を握っていた。でも、歩道橋でものすごい人混みに押され、気を失いました。たくさんの人が折り重なり、助けていると、一番下からあの子の顔が見えたんです。その後は病院に着くまでずっと抱きしめていました。
事故が起きてすぐ市や警察、警備会社の警備体制の不備が浮かびました。警察がきちんと調べて、被害者に説明してくれれば良かった。でも「茶髪の若者が暴れていた」「歩道橋は混雑していなかった」と報じられるなど、僕たちが知っていた状況とあまりに違っていた。「事実が隠蔽(いんぺい)される」と不信感が募りました。
2001年7月に起きた明石市花火大会の歩道橋事故は、死者11人、負傷者247人という大惨事でした。下村さんは「犠牲者の会」の会長も務め、様々な活動に取り組むようになります。
智仁は僕が仕事から帰ると、いつもひざの上で、大好きな電車の本を広げるような子でした。怖がりで、あの夏はセミの抜け殻ばかりをとってきていた。なのになぜ、あんな形で命を奪われなければならなかったのか。警察には真実を明らかにし、謝って欲しかっただけです。僕たちがいなければ、警察の発表通りになっていたと思うと、ぞっとします。
忘れない あの子たちの最期
――最高裁で時効による副署長(当時)の免訴が確定したのは16年でした。
刑事と並行して、民事で責任追及をすすめ、原告団長を務めました。自分たちで証拠を集め、遺族側の主張をほぼ全面的に認める一審判決が05年に確定。しかし、その後が長かった。「どうして、そこまで」とよくきかれますが、がんばらないと押しつぶされてしまう。
事故当日、僕が息子を抱っこして病院に行く時、心肺停止の子どもが6人いました。4人は親とはぐれ、僕が「がんばりよ。助かるよ」と声をかけ続けた。僕は、その子たちがどんな最期を迎えたのかを知っている。忘れることはできません。
最高裁の判決は決して、僕た…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル